深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義6.球磨先人の知恵と偉業

6-6. 高原(たかんばる)と 神殿原(こうどんばる)飛行場

 昭和20年2月、その時、筆者は満8歳であった。木上(きのえ)の「高原(たかんばる)飛行場」が空襲を受け、爆弾が落ちたらしく黒い煙が立ち上るのを簡素な防空壕の入り口から父と二人で見ていた。それから74年余り、この地区に飛行場があったことなど気にも留めずいたが、2016年1月の朝日新聞デジタルに、「屋根無し掩体壕跡2基確認、人吉海軍航空隊基地跡」の記事がでていた。掩体壕(えんたいごう)とは、空襲に備えて戦闘機などを隠す施設のことである。「人吉海軍航空隊基地跡」というのは、人吉海軍航空隊がいた「海軍人吉飛行練習場」のことであり、われわれの地元では高原飛行場と呼んでいた。

 あさぎり町の深田西あたりから、球磨川沿いに国道33号線を人吉方面に向かうと、錦町木上北の山下あたりから標高が高くなりはじめ、標高155mほどの高原(たかんばる)に至る。ここには今から70年ほど前、図1に示すような海軍航空隊が駐屯し、図2のような滑走路があったのである。場所は現在の錦町木上北の由留木(ゆるぎ)から相良村の柳瀬地区である。このあたりの今は開墾され、企業用地や耕作地となっているが、昭和20年2月からの艦載機による爆撃では戦死者が9名と民間人の爆死者が4名あったとのことである。33号線の右側には図3に示すような「人吉海軍航空隊之碑」や「人吉空予科練・留魂」などの記念碑や慰霊碑が建立されている。

正門 滑走路跡 航空隊の碑
図1.当時の人吉海軍航空隊正門 図2.滑走路跡(道路の左側) 図3.航空隊之碑
(写真1・2の出典:人吉球磨海軍航空隊を顕彰する有志の会)

 元人吉海軍航空隊司令、田中千春の碑文によると「昭和十九年二月球磨郡木上村川辺、球磨の清流に裾を洗わるる高ン原の大地に開隊第十八連合航空隊に属し全国の猛烈なる志願者より選抜採用された飛行予科練習生に整備教育を施し二十年七月解隊迄に凡そ六千の航空要員を実施部隊に送り出した」とある。碑文によると、同基地は1年半足らずの間に「凡そ六千の航空要員を実施部隊に送り出した」とあるが、訓練生は真に航空要員となることができたのかどうか、筆者にはもう一つのかすかな記憶がある。

 それは、航空少年隊員の松根掘りであり、当時は飛行訓練どころではなく、松根掘りが日課であったからである。小学校1年生の頃、私も岡原地区の岡麓谷だったか宮麓谷だったかはっきりしないが勤労奉仕にかり出された覚えがある。掘り出された松根は集められ、ドラム缶のようなものの中で蒸し焼きのようにされていた。図4は当時の松根掘り風景であるが、このような山仕事を訓練兵士も民間人も総動員でしていた。

 松には、他の木材と比べ可燃性の樹脂(松脂:まつやに)を多く含み、特に、朽ちることなく残った心材部(赤身の部分)の可燃樹脂成分は高く、マッチ一本で容易に燃え移った。松脂の主成分はテレビン油とロジンというものである。テレビン油というのは、松脂を蒸留して得られる揮発性の油のことである。ロジンは、その粉末を布袋に詰めたものがロジンバッグであり、鉄棒や野球バットを握るときの滑り止めに使われたりするアレである。

勤労奉仕 松根油
図4.松根掘りの勤労奉仕風景 図5.松根油増産啓蒙ポスター

 松根油(しょうこんゆ)は、マツの切り株を乾溜することで得られる油状の液体である。松根油の成分はガソリン成分とは異なり、ガソリンと同じように精製しようとすれば、ガソリンエネルギーを4割ほど使ってしまい、効率が悪かった。それでも、航空燃料不足の時代である。「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」などのスローガンのもと、図5のようなポスターまでつくられた。1945年、昭和20年3月には松根油等拡充増産対策措置要綱が閣議決定され、松根油を原料に航空用ガソリンを製造することとなった。そのため、原料の伐根の発掘には多大な労力が必要なため、学徒動員や無償労働奉仕が求められたのである。

 この松根油が航空用ガソリンの代替になるという情報は、ドイツから日本海軍に伝わった断片的情報であった。そのため精製法の詳細が不明で、実際に利用されることなく終戦を迎えた。人吉海軍航空隊基地(高原飛行場)からは6千の航空要員を戦場に送り出したとあるが、終戦末期のこと、多くの訓練生は本望ではない松根掘りにかり出されたのではないかと筆者は思う。

 2018年8月3日の毎日新聞に、人吉海軍航空基地を紹介する資料館「秘密基地ミュージアム」が開館した旨の記事がでていた。秘密基地の目玉は、図6に示すような地下隧道である。隧道は地下弾薬庫や倉庫の役目だけではなく、無線室や作戦室であり、航空機搭載の魚雷調整や航空部品の組み立てなど自力発電施設をもった地下工場であった。この地下施設を見学するためには、資料展示館で手続きをして、案内人に従い、滑走路東端にある入り口から数百の山道階段を降りた油留木集落の山崖にある。(図6クリックで隧道内部の写真に)

 人吉球磨地方でも役場が中心になって推進しているのが「グリーン ツーリズム」で、農山漁村地域における自然、文化、人々との交流を楽しむ滞在型の余暇活動である。戦争や災害及び迫害などの悲しみの記憶を巡る旅のことを「ダーク ツーリズム」という。人吉球磨地方にもダークツーリズムに適した箇所がある。高原飛行場跡地や隠れキリシタンや隠れ念仏の遺構や遺跡である。代表的なものが錦町木上西にある「秘密基地・人吉海軍航空基地跡の戦跡」「人吉海軍航空基地資料館:ひみつ基地ミュージアム」である。

 資料館には往時の資料が展示してあるが、目玉は資料館から崖の長い階段を下ったところにある。図7は、往時の松根油乾留工場の写真であるが、ここには、魚雷調整、無線、格納倉庫、地下兵舎及び工場等の隧道が縦横に掘られていて、それらが案内人と一緒に見学できるようになっている。

地下壕入り口   乾留工場
図6.高原の航空基地地下壕入口 図7.往時の松根油乾留工場
(写真7の出典::秘密基地ミュージアムHP)

 終戦は昭和20年の8月であったから、おそらくその翌年あたりであった。当時の球磨郡上村の方角に真っ黒い煙が立ちのぼっているのが岡原地区からも見えた。「神殿原(こうどんばる)の飛行場」で飛行機を燃やしていたのである。何日かたって、焼け跡に散らばっていた飛行機の金属部品を持ち帰ったが、どこに隠しても「デンパタンチキ」というものがあり、すぐ見つかってしまうから返してこい!と大人に言われ返しに行った覚えがある。

 神殿原の飛行場は、正式には「陸軍人吉神殿原飛行場」、公文書では「陸軍人吉飛行場」だそうであるが、地元では「神殿原飛行場」であった。神殿原飛行場の位置を航空写真のサンプル画像に張り付けたものを図8に、前述の高原飛行場の位置も含めて示した。球磨郡には、このように陸軍と海軍の二つの飛行場があった。しかし神殿原の飛行場が陸軍の秘匿飛行場であることは長い間知らなかった。秘匿飛行場というのは、戦争末期になると本土爆撃が日ごとに激しさを増し飛行場が爆撃の対象になった。そのためきたるべき本土決戦に備えて、飛行場や航空機の温存に迫られ、敵機から発見されないように隠蔽した飛行場である。

2つの飛行場
図8.球磨地方にあった2つの飛行場

覆い
図9.陸軍人吉神殿原秘匿飛行場の木製掩体壕復元図
(出典:あだち安人氏プログ:人吉海軍基地跡・陸軍飛行場跡の調査)

 2010年9月の人吉新聞に、木製の掩体壕(えんたいごう)跡が近くの民有地(現あさぎり町上狩所)で見つかったとの記事が載った。現在、球磨郡あさぎり町の教育委員会によって、土台となるコンクリートの基礎部分が4ヶ所、発掘されているとのことである。掩体壕は前述したように、また、図9に示すように、飛行機などが空から見えないようにした壕のことで、図9左は断面図、右は正面である。

 「高原」と書いて「たかんばる」となかなか読めないが、それ以上に、「神殿原」と書いて「こうどんばる」とは地元以外の人は読めない。筆者も「こうどんばる」が漢字では「神殿原」と書くとは子供の頃は知らなかった。今では図10のように、神殿原飛行場の場所はわからない。しかし、相変わらずの黒ボク地ではあるが、いまは肥沃な恵みをもたらす大地となっている。写真から分かるように、ここの土は黒い。「黒ボク土」である。黒ボク土はもともと霧島火山帯からの火山灰であるが、火山灰に多く含まれるアルミニウムが有機物と強く結合する性質をもつため、年月とともに土壌中の有機物と混ざり合い黒くなったのである。飛行場がなくなったこの地区では、戦後、サツマイモ(カライモ)がつくられていた。筆者の家のカライモ畑もここにあって、収穫時には手指にカライモの白い乳液と黒ボク土が付着し水で洗ったぐらいでは取れなかった。

  
神殿原
図10.神殿原飛行場跡(現在の岡原開墾地区から見た風景)
           
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